ISLAND

第6回離島と離島の暮らしの比較研究「ホロンと島民性とパラパラ漫画」

あっしーくんへ

ニーハオ。僕です。

台湾旅行は楽しかったね。瑞穂温泉の旅館でもらったと思われるダニはその後大丈夫かい。

「ダニは大丈夫かい」と書くと、君よりもダニの心配をしているようだね。

旅行中、結構いろんな大切なことを話した気がするのだけど、書き綴らないと忘れてしまいそうなので、そんな思いつきについて書き残しておこうかと。あっしー君もどうか書き留めてほしいです。おもろいこと言ってた気がするんだよ。

確か、台北行きの列車の中だっただろうか、島民性について話した記憶がある。その時僕は、アダムカヘン氏の著書「敵とのコラボレーション」で紹介されていた「ホロン」という概念について言及した。ホロンはざっくりいうと「集団の中で誰も代表性を持った人っていないよね」という話だった。

誰も、集落Aに属しつつ集落Bにも属し、男であり女であり、若者であり老人でもある、漁業も農業も観光業も営む、という存在の仕方ができない、みたいな話だったと思う。だから、なんとなく人数の多寡とか多数決とかで語ることができても、代表性というのは個人が持つことはできない、みたいな話だ。きっと。

でも、果たして本当にそうだろうか、と。僕らは当たり前に「島民らしさ」とか「町民らしさ」について語る。そして、なんとなくそれが当たっているような気もする。これは何なのだろうか。島民性とか町民性、地域性ってなんだろう。

思いついたのは、たとえば全島民の顔写真を取り、パラパラ漫画のようにめくって見せて人が受ける印象のようなもの、それが島民性や町民性、地域性なのかもしれないな、ということだ。うん。たぶんそうに違いないのだ。

そして島民性がパラパラ漫画の全体的印象であるならば、あなたはその「全島民の顔写真の一枚」という存在であるのだ。

だから、たぶん、ある地域に1人、今日から新しい人が住みはじめたとして、それだけで島民性にはちょっとした変化が生まれるのだと。

ここで注意が必要なのは、「平均化した特徴=地域性ではない」ということ。

100人の村があり、99人が白人だったとする。残り1人は黒人だ。この地域の地域性はどう理解すればいいか。「この村の民は白人」ではなく、パラパラ漫画をめくると「1/100の確率で黒人が出てくる村」という印象を受けないだろうか。

久米島だとおそらく、三線を弾ける人よりも弾けない人の方が多いと思う。だけど、「三線を弾ける」「久米島の民謡が歌える」というのは、久米島島民の確固たるアイデンティティとして存在する。三線が弾けることが代表的だからではなく、特徴的であるからだ。100枚に1枚しかその写真が登場しなくても、大きな印象を与えるからだ。

ここまで、地域性とは静止画的な平均化されたイメージではなく、動的なパラパラ漫画をめくって受ける印象のようなものではないか、という話をしてきた。何が言いたいかでいうと。田舎あるあるだと思うのだけど、移住者や地域おこし協力隊のようなポジションの人に対する「ちょっと住んだり関わったりしただけではその地域の人間とは言えない」という声。これに大きく関わる話なのだと思うのです。

これまで、「僕らはよそもので、平均化した特徴を有していない=その地域の人間とは言えない」などと思うフシがあった。だから、地域や島のことを語るときに、どこか後ろめたさを感じている部分があった。「自分はその地域の人間ではないのに、島の未来を考えるような仕事に関わって良いのだろうか」などと、ひっかかるようなことがあった。

まちづくりに関する会議や勉強会に出席して、「周囲が移住者ばかりだ」と嘆く地元出身者を見て、どこか居づらく思っていた。だけど、元々の住民だって、聞けば何代前かに移ってきた移住者だったりする。じゃあどこまでが移住者でどこまでが島民なのか。それがわからなかった。

結論としては、島民なのだ。よそものだろうと、元から生まれ育った人だろうと。パラパラ漫画の一枚なのだ。

だから、自分自身の属している分類や立ち位置には自覚的である必要はあるのだけど、それほど遠慮せずに、町のいいところや問題点について語っていいのだと思う。自分や、自分のような立場の人が住みやすくなるためにも。平均的な島民性だけが全てではない。あなたも私も、しょせんパラパラ漫画の一枚にしか過ぎないのだから。

***

地域性や島民性については、台湾旅行中に結構考えたな。思い出してきた。

例えば、「あの移住者はこの島の人よりもこの島の人らしい」みたいなことを言われる人がいる。お世辞でそのように言ってくれる部分もあるのだろうが、どこかおそらく島民性をその移住者の中に見ているのだと。以前徳島のお祭りで阿波おどりがめっちゃうまい黒人の方を見たのだけど、彼は少なくとも踊っているその瞬間は、黄色人種である僕らよりも徳島県民らしさがあったように思う。ヤギ汁が好きな僕は、ヤギ汁が苦手な地元出身者よりも、「ヤギ汁を美味しく食べる」という一点のみにおいては久米島民の特徴に近しい。

島民性や地域性は獲得できるのだ。であるならば、今回の台湾旅行で、僕らはおそらく、いくぶんかは台湾民性を獲得したはずだ。例えば挨拶で「ニーハオ」と言ってしまうくらいには。そしてその、いろんな地域性を獲得していくのが旅から学ぶことなのかもしれないし、グローカル人材を育てるということなのかもしれない。

また、幻想としての島民性について語ることもできるな、と思いついた。「久米島民はかくあるべき」とか「かつての久米島民はきっとこうであった」という物語によって浮かぶ島民性が。アメリカなんかそんなイメージ。「かつて我々の子孫は勇敢に海を渡り冒険を重ねたフロンティアスピリットが……」みたいな。

これについては、またそのうち考えるかもしれないし、考えないかもしれない。とっちらかってきたので、このへんで終わります。

ABOUT ME
石坂達
沖縄・久米島在住。ブログやってます。